第4話【5代目に就任、台所で研究を行う】

1969年(昭和44年)東京大学大学院を修了した徳山は国税庁の醸造試験所に就職し、引き続き醸造技術を学んでいました。
しかし、母親から「学者は何人でもおるけど、家の後継ぎはあんたしかおらん・・・」といわれ、わずか2年後には帰郷。勇心酒造の社長として5代目を継ぐことになったのです。

昼は得意先回り、夜は台所で研究

清酒を作るうえで欠かすことのできない「米」。
米はかつて清酒のほか、焼酎、甘酒、酢など多くの用途に用いられてきましたが、西洋の近代科学が導入された明治以降、新たな用途開発はまったくと言っていいほどなされていませんでした。
――「米」を「酒」に変える醗酵技術を利用すれば、人類がまだ知らない米に秘められた力を引き出せるのではないか――
徳山は清酒販売の利益を元手に、その独自の理論に基づく米の総合利用研究を進めるつもりでしたが、地方の造り酒屋ではそうも簡単にいきません。社長といっても、日中は得意先回り、配達、集金までこなさなくてはいけない日々が続きました。5代目を継いだばかりのころ徳山は30歳、それまで研究一筋で営業はめっぽう苦手。「毎度ありがとうございます」も満足にいえず、それでも毎日、酒屋の仕事に明け暮れました。
酒屋の仕事を終えて帰宅した後、大学院時代に到達した理念を追い求めて、深夜まで研究に没頭しました。その頃の「研究室」は自宅離れにある小さな台所。そこにメスシリンダーやフラスコ、ビーカーなどの限られた実験器具を持ち込み、夜な夜な発酵の実験を繰り返しました。高い実験器具は購入できず、発酵はプラスチックバケツ、殺菌には調理用コンロで代用。使い終わった器具の洗い物や片付けは結婚したばかりの妻が手伝ってくれました。

初めての研究成果

まず徳山が研究に取り組んだのは調味料の開発でした。徳山の行きつけにしていた料理屋の80歳になる板前が「今の酒より昔の酒の方がより料理の味を引き立てた」と言った一言がきっかけでした。
昔と今の酒の違い――今の清酒は醸造技術の進歩によって昔の清酒より雑味が少ない。清酒にとって無駄な成分こそがうま味の元になっているのではないか?と徳山は考え、出した答えは「あえて雑味のある酒を造る」。それは良い酒造りを目指してきた酒屋とは全く逆の発想でした。
この考えを聞いた蔵人たちは当初戸惑いました。雑味の多い酒を造るという事は、飲めない酒を造るということ。しかし、これからの厳しい清酒業界をのりこえていくため新しい一歩のために、蔵人たちには納得してもらう他ありませんでした。
調味料開発のために、幾通りもの発酵を試し出来上がったエキスを色々な料理に試す・・・そうした作業を繰り返し、1977年(昭和52年)魚の臭みを消し、料理のうま味とまる味を引き出す効果のある理想の醗酵調味料が完成しました。その調味料を「ゆうしん」と名づけて商品化したところ、食品メーカーの冷凍食品や魚肉ソーセージなどに採用され、年間5千万円から多いときで7千万円の売り上げとなりました。初めて商品化した調味料は清酒の販売額に匹敵する売り上げを叩き出したのです。
清酒の製造を行えば行うほど赤字が増えていた酒屋の経営の中で、この調味料「ゆうしん」の開発は徳山を経営の苦しみから解放してくれる存在でもありました。